自らの考えを他人に押し付けたり、「自分が正しい」と妄信してはいけませんね

「見方を変えるとまるで違った真実が見えてくる」

ということは、どなたも経験されたことがあるのではないでしょうか。




年齢を重ねるほどそうしたことをわきまえて、あらゆる角度から謙虚に物事を捉えていくことが非常に大事であることを思い知らされるのですが、

そのことに気付くきっかけになったのが、元高校教師で現在はハーブ屋さんの店長をされている方から教えもらった

「インドの山奥に医療ボランティアとして派遣されることになったとある日本人の女医さんの話」

で、




その村にはおよそ文明の機器というものは存在せず、昔ながらの原始的な生活を送るおよそ数十人の村人で構成されていました。

そして村には一本の川が流れていて、その川の水が飲料や洗濯用として唯一使える水だったのですが、この川の水はひどく濁っていて、お世辞にも衛生的とは言えない水でした。

ですから体力のある大人はともかく、小さな子供がその水を飲むとすぐに下痢などを引き起こし、その結果、幼くして亡くなる子供の数は少なくなかったそうです。




そこでその様子を見た女医さんは

「亡くなる子供やお母さんがかわいそう」

と思い、すぐ村の長老に

「私は日本に帰って募金を募ります」

「そしてその募金でこの村に井戸を掘りましょう」

「井戸が出来れば泥水ではなく、衛生的できれいな水を飲むことができるようになります」

「そうすれば幼くして亡くなる子供の数は減りますし、悲しむお母さんを作らなくて済むようになります」

「如何ですか?」





と提案するのですが、村長から反ってきた言葉は意外にも




「余計なことはしないでくれ」

という思いがけない一言。





一瞬女医さんは頭が混乱するも、すぐになぜ井戸を掘ることが余計なことか聞いてみると、

「この村は自然をありのまま受け入れ、生き死にもその自然の有るがままに受け入れることにしている」

「だから幼くして亡くなる子供は数多くいるが、結果的にそのお陰と言うべきかこの村の人口は増えもせず減りもせず、ちょうど良い人口を保ち続けることができている」

「だがもし、あなたの提案を受け入れて井戸を掘ったとして、衛生的な水が確保できるようになるとどうなるだろうか」

「確かに子供が亡くなる数は減り、悲しむ母親も減るかもしれない」

「だがそうなると、恐らくこの村の人口は増え続け、やがてわが村の生活範囲の中にある自然の恵みだけでは全ての村人を養えなくなり、最終的に幾人かは他の土地へと移り住むことを余儀なくされることになるだろう」

「そうなるとどうなる?」

「いつか他の村や他の部族と土地の奪い合いが起こり始めるであろうことは目に見えているのではないか」

「それではせっかく増えた村人も争いによって命を落とす結果となり、いずれにしてもそれによって悲しむ人を生んでしまう結果になってしまう」

「であれば我々は自然の有るがままを受け入れ、他の者と争わずに村が存続する道の方をこそ選ぼうと思うのだ」

「幼くして亡くなる子供や母親には申し訳ないがな・・・・・」

というものでした。


「子供の命を救いたい」という女医さんの想いは大変素晴らしく誰も否定できない事ではありますが、何十年何百年という未来を見据えた時にはその優しさが、人々を争いに巻き込み、村自体を存亡の危機に陥しいれてしまう原因になるかもしれません。


一方で「自然の流れをありのまま受け入れる」という村長さんの考えは、短期的に見れば命を落とす子供を作ってしまったりそれを悲しむ母親を作ってしまうわけですが、長期的に見れば人間同士の争いを未然に防ぐ賢明な選択にもなっています。



どちらが正しくどちらが間違っているということが言えないこのお話は、何でも短絡的に白黒をつけたがる今の世の中の風潮に疑問を投げかけるような意義ある深い内容であるように思うわけですが、

ほんの少し視点を変える・判断の基準を変えるだけでまるで違った答えや事実が見えてくることを考えれば、

「決して自分が正しいなどと妄信したり、自分の考えを他人に押し付けてはいけない」

事を痛感させられるお話でもあったと思います。



何が正しくて何が間違っているのか、真実を見極めることは本当に難しいことですね。