「物を大切に扱うことでしか得られない本当の価値」について

もし

ご自身の車が古いうえに見た目も傷んでいて、だけどどうしても人を乗せなきゃいけない



そんな状況になったら、皆さんは何をどう思われるでしょうか。



大抵の人は

「こんな古くて痛みのある車に人を乗せるなんて恥ずかしい」

と思われるのではないでしょうか。

きっと僕ならそう思うでしょうし、と言うか実際そう思いながら人を乗せたこともありました。




「古い」とか「見た目が痛でいる」というのは、普通に考えればやはり恥ずかしく嫌な事なんですよね。





ところがそれは凡人の考えであって、「人間のできた人」の考え方というのは全然違うもので、

この話を聞いていたある方が

「どんなに古い車であっても、誰が見ても大事に乗っていることが分るくらい、日ごろからピカピカに磨いて乗っていればどうだろう

「きっとどれほど高級で新しい車に乗っているよりも、人はその乗り手の事を信用してくれるだろうし尊敬すらしてくれると思うよ」

「大事なのは新しいか古いかなんかじゃない」

「お金をたくさん持っているかどうかでもない」

「物に対するその人の扱い方や思い入れといった、何かを大切しようとするその姿勢の方が大事なんだよ」

と仰られたそうです。

言われてみるとほんとにその通りではないでしょうか。

どんなに新しいものを身に付けていても、どんなにお金を持っていても、物を大事にしないとか、人を大事にしないような人は上辺でちやほやされることはあっても、心底尊敬されたり信頼されたりすることはきっとないように思います。




そもそも日本人には「物を大切にし、修理をしながら長く使う」という文化がずーっと続いていたはずです。

茶碗のような日用品ですらも明治時代くらいまでは欠けや割れを治しながら使うのが当たり前だったは事よく知られた話(今でももちろん金継ぎしながら使われる人もいますね)ですし、僕が子供の頃でも衣類に継をあてて着続けるのが普通でした。



しかし高度成長やバブルによって物質的・経済的に豊さが増していくと、「物を長く使う」という事よりも「古くなったものは新しいものに変えていく」という風潮の方が蔓延するようになり、今や「なんでも使い捨てが当たり前」と言えるほど物を長く使わないような時代になってしまったように思います。

もちろんこれはこれで世の中がきれいな状態を保ちやすくなり、清潔感溢れる社会を保ちやすくなるという一面もあるので良い部分もありますが、同時に「古いものは早く買い替えた方が良い」「古いものを使っているのが恥ずかしい」という、「物を大事にしなくなったり」「物を軽く扱う」ような文化や考え方も同時に生まれてしまったようにも思います。



だからでしょうか。



物は溢れているし水や食べ物だってまだまだ日本は他国に比べれば圧倒的に手に入りやすい状況にあるのに、人と人とのつながりや信頼関係といったものがどんどん失われていっているように感じられます。

それは物に対する粗雑な扱いが、人間性や人間関係にも表れているという事なのかなと思ったりもします。



もしかしたら「物を大切にして使い続ける」というのは、人が、社会が争う事なく、健全かつ永続的に存続し続けるために最も大事な心構えなのかもしれませんね。

そう思ったお話でした。


ー日々是好日とはー
継続の重要性を表す言葉で、今この瞬間を精一杯に生きる。この積み重ねが一日となれば、それは素晴らしい一日になるということ。