無意識の「無」の中にこそ自然があり、人間の本来の姿がある

個人的に何故か惹かれてしまう人に桜井章一という方がおられます。
素人がプロに勝ててしまうこともあるくらい、運の要素が強い競技「麻雀」で、20年間無敗を誇ったという伝説の方になります。
お世辞にも人相はよくありませんし、麻雀の世界で有名な人となるとやはり不健全な何かを抱えておられるのではと思ったりもするのですが、
「不調こそわが実力なり」「心が澄めば運が入ってくる」「答えより問いを見つけよ」「心温かきは万能なり」「水や風に学べば迷わない」等々、まるで悟りでも得た修行僧のような名言をたくさん残されてもいて、一見した印象とのあまりのギャップの大きさに魅力を感じてしまうのかなと思ったりします。
今でもご存命ですが、近年は麻雀をされることは殆どないそうで、時折プロスポーツ選手や将棋の羽生善治名人などとの対談をされたりしながら、静かに暮らされているということです。
その桜井氏。実は書籍の出版も行われていて、私自身も何冊か購入しています。
その中で先日購入した書籍にも「これは大変良い話だなあ~」と思えるものがいくつかありましたので、中でも特に良かったと思ったお話を一つ厳選してご紹介させていただきます。
少し難しくもありますが、とても麻雀で有名な方とは思えないような澄んだお話なのでぜひご一読ください。

【意識を消すと自然体になる】
人間の意識は言葉で出来ている。人は言葉を使って考える。モノをつくり出す。つまり意識というものは、自然からはハミ出したものなのだ。
一方、無意識は、言葉とは違う人の本性に近いところにある。その点で無意識は、自然に近いものである。すなわち、「自然体」というものは、人がどれだけ意識を忘れるかにかかっているのである。
自然体が持つしなやかさや楽しさは、意識を必要最小限まで削ぎ落としたところに生まれる。意識は常に何かを「貪欲に求める」ものだが、贅肉のように余分な意識を落とすと、そんなガツガツしたものが消えてしまうのである。
自然体になろうとしてもなかなかなれないのは、そこに自然体になろうとする強い意識が働いているからである。自然体を意識している限り、自然体に近づけない。人が自分を無意識に委ねたとき、自然に近づくのは、無意識が「最小限の求め方」をするものだからだ。
私は麻雀以外のことも、力みを持たないようにしている。普段の生活でも仕事においてもそうだ。うまくやってやろうとか、いい結果を狙おうなどという欲は持たない。余計な意識を外した方が、結果的にはうまく出来たり、いい結果を導いたりできるものなのだ。
無意識の「無」の中にこそ自然があり、人間の本来の姿がある。そのことを忘れないでいただきたい。

雀鬼語録 桜井章一名言集より