元京都大学の総長を務められた方による「自由の文化」と「対話の型」のお話をご紹介します

ゴリラの生態を研究されている第一人者であり、京都大学の総長を務められたこともある山極壽一先生の「対話の型」についてのお話が大変素晴らしい内容でしたので、今月は先生のお話をほぼそのまま記載させていただきました。

少し話が繋がりにくい部分があったり、解釈が難しい言葉が使われていたり、上手くまとまりきっていない文章になっているかもしれませんが、人とのコミニュケーションを図る上で役立つ内容だと思いますので、ぜひ参考にしていただければ幸いです。


ー以下本文ー
京大には自由の文化があると言われていますが、その自由の文化とは何かというと対話の型にあるんです。
東大では討論の仕方をディベートと言って、「勝つか負けるかで自分の主張を相手に認めさせる」「認めてもらったらそれを俺の主張が通った・勝ちって」そういう激しい討論をするのが普通だと思われているのですが、京都大学、あるいは関西全域がそうかもしれませんが、討論する前と討論した後で自分の意見が変わっていることが重要視されているんですね。

その上で押し通すのではなくて相手も変化していることを大事にしようとする姿勢があるんです。

つまり相手と討論するメリットというのは、自分も相手も凝り固まった主張で臨んだかもしれないけれども、それを乗り越えるような話が出きって初めて討論の意義がある。それが自由な発想であり、それが一つの型と捉えている訳です。

そういうものが相手の自由を認め、自分の自由を求めることに繋がりますし、更には新たな自由を求めて旅立とうという気構えがないと創造的なことはできませんから、だから自由というのはクリエイティブ想像に結びつかなくてはいけないし、でも創造性を求めるためには何でもかんでも自由にして良いかと言えばそうではなく、何というか気構えというかマナーが必要なんですね。

そのマナーこそが型であって、これは恐らく京都の公家文化が1200年の歴史をかけて作り上げてきた対話の型かもしれないですね。或いは学びの型かもしれないんですよ。


~中略~


そして意見がぶつかり合うということは喧嘩が起きているということになるわけですが、喧嘩の意味というのは、ぶつかり合った時よりももっと良い関係が結ばれることが喧嘩をする目的なんです。

私はね。喧嘩とは、ぶつかり合う姿とは、美しいものでなければいけないと思うんですよ。見てて美しいものであって、それは国境を超える、或いは集団を超える美的感覚というものが備わってなければいけないと思うんです。

だからこそそこには型が必要でありマナーが必要なんです。そしてそれこそが自由の文化なんです。